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代々幡町水道の制水弇【1】

明治22年(1889年)5月1日に東京府南豊島郡の代々木村と幡ヶ谷村が合併して代々幡村が誕生しました。明治29年(1896年)4月1日に南豊島郡と東多摩郡が合併したため、豊多摩郡代々幡村、大正4年(1915年)11月10日に町制施行して豊多摩郡代々幡町となりました。その後、昭和7年(1932年)10月1日に東京市に編入され、澁谷町、千駄ヶ谷町と合わせて渋谷区が設置されました。

大正11年(1922年)7月に豊多摩郡町村長会議で、代々幡町、淀橋町、大久保町、戸塚町、中野町、千駄ヶ谷町、落合村を組合とする上水道布設の議が起こりました。後に、北豊島郡の13町村も参加して荒玉水道を結成することになりました。ところが、大正13年(1924年)10月24日の町会で荒玉水道への参加が否決されました。そして、大正15年(1926年)9月28日の町会で緊急動議「臨時水道調査委員設置の件」が可決、17名の委員が任命されました。そして、澁谷町、目黒町、駒澤町、世田谷町と組合設立を目指しましたが失敗しました。このため単独で水道を布設することになりました。

昭和4年(1929年)3月1日、大字幡ヶ谷407番地で鑿泉(サクセン)の掘削工事に着手し、3月30日に落成しました。その後、揚水試験および東京市衛生試験所による水質化学試験が行われました。この結果を受けて、昭和5年(1930年)7月15日に内務大臣宛に水道布設の認可申請を提出し、翌年1月6日に認可されました。

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昭和6年(1931年)2月29日(参考文献より)に工事に着手し、10月4日に給水を開始しました。この工事は、当時の世界恐慌下での失業救済事業となっていました。竣工は昭和10年(1935年)3月31日を予定していましたが、その前に東京市に編入されてしまいました。

水道事務所は大字代々木字初臺に置かれました。水源は地下水で、計画時には水源地として下記の7ヶ所が選定されていました。

  • 第1號井 大字幡ヶ谷字本村北529番地
  • 第2號井 大字幡ヶ谷字本村北407番地(昭和4年掘削済)
  • 第3號井 大字幡ヶ谷字本村西696番地
  • 第4號井 大字幡ヶ谷字北笹塚1278番地
  • 第5號井 大字代々木字山谷421番地
  • 第6號井 大字代々木字富ヶ谷1361番地
  • 第7號井 大字代々木字西原949番地

ところが実際は7ヶ所のうち3ヶ所は隣町の豊多摩郡和田堀町内で掘削されました。

  • 第1號井 大字幡ヶ谷字本村533番地
  • 第2號井 大字幡ヶ谷字本村407番地
  • 第3號井 和田堀町大字和田字本村1043番地
  • 第4號井 大字幡ヶ谷字中幡ヶ谷1448番地
  • 第5號井 大字幡ヶ谷字北笹塚1375番地
  • 第6號井 和田堀町大字和田字砂利田740番地
  • 第7號井 和田堀町大字和田字堰山643番地

このうち堰山には浄水場が併設され、和田堀町内の鑿井からの原水を処理していました。また第7號井の予定地だった西原には、代々幡町内の4ヶ所の鑿井と堰山浄水場から送水された水を町内に配水するための西原給水場が建設されました。

制水弇

京王線笹塚駅近くに代々幡町水道の制水弇が残されています。表面は代々幡町水道の紋章のみで、文字は書かれていません。当時は「阻水弇」という名称も使われていましたが、参考文献では「制水弇」という記述になっています。渋谷区桜ヶ丘にあった東京市の阻水弇が最近撤去されてしまいましたが、この蓋もいつまで残るのか予断を許さない状況といえます。

【参考文献】
東京府豊多摩郡代々幡町水道事務所 『代々幡町水道小誌』 昭和7年9月25日
東京市役所 『隣接五郡に於ける上水道に關する調査』 昭和7年6月

【関連記事】
東京市の阻水弇 (2009.11.17) …撤去済

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