内務省のマンホール
内務省は明治6年(1873年)11月29日に設置された官庁で、当初は大蔵省、司法省、文部省の所管事項を除く内政全般を管轄していました。後に所管を他省庁に移管していった結果、大正時代には地方行政、警察、土木、衛生、労働、神道等の分野だけを担うようになりました。
その後、昭和13年(1938年)1月11日に厚生省が分離独立しました。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の命令により神道関係の業務が国家から分離され、昭和21年(1946年)2月3日に設立された神社本庁によって引き継がれています。そして昭和22年(1947年)12月31日に内務省は解体されました。現在では総務省、国家公安委員会・警察庁、国土交通省、厚生労働省がその業務を引き継いでいます。
府中市美好町3丁目の東京都道229号府中調布線(旧甲州街道(東京都道229号府中調布線)の歩道上に内務省のマンホールが少なくとも5枚あります。場所は京王線分倍河原駅の府中方にある府中5号踏切の西側になります。
蓋のデザインは東京市型と呼ばれるJIS標準模様です。中央部分には図案化された「内」の字があります。この紋章は内務省のものです。
戦前の甲州街道は内務省の管轄下で、明治18年(1885年)の内務省告示第6号「國道表」で國道16號(東京ヨリ山梨縣ニ達スル路線)に指定されました。大正9年(1920年)の道路法の布告によって國道8號になりました。失業救済事業として、昭和6年度(1931年度)に「北多摩郡府中町屋敷分ヨリ同郡谷保村谷保に至ル」区間(全長3.0km)の改築(幅員15m)および舗装工事が政府直轄で行われました。屋敷分とは分倍河原近辺の当時の字名です。この蓋はこのときに設置されたものです。
戦後は新設された建設省の管轄下となり、昭和27年(1952年)12月4日に国道20号線として指定されました。昭和31年(1956年)4月に東府中~本宿町間のバイパス(新甲州街道)、昭和36年(1961年)11月に下石原~東府中間のバイパスがそれぞれ開通しました。このバイパスが国道20号線に指定され、従来の道は東京都道229号府中調布線・旧甲州街道として管理されるようになりました。
【参考文献】
東京府 『東京府史 行政篇 第四巻』 昭和11年9月19日
【関連記事】
東京府のマンホール【2】 (2011.06.03)
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