京王電軌成城変電所
京王電気軌道は、京王線沿線を中心に電燈・電力供給事業も手がけていました。
大正15年(1926年)下期、鉄道部門の収入は715,750円27銭、電燈・電力部門の収入は483,011円10銭でした。ところが昭和6年(1931年)下期に電燈・電力部門の収入が鉄道部門を上回り、昭和15年(1940年)上期には鉄道部門収入が1,323,516円10銭、電燈・電力部門収入が2,326,596円55銭になりました。
この電燈・電力部門の急成長に伴い、昭和10年(1935年)以降、京王線の沿線外に電燈・電力供給専用の変電所が設けられるようになりました。
昭和13年(1938年)5月12日、小田原急行鉄道(現:小田急電鉄)小田原線の祖師ヶ谷大藏駅南側の東京府東京市世田谷區大藏町1473の地に京王電気軌道成城変電所が竣成しました。
この付近の大口需要家に東京市水道局の砧上浄水場(現:砧浄水場)と砧下浄水場(現:砧下浄水所)、日本放送協会技術研究所がありました。大正10年(1921年)11月23日に下高井戸からの3kV送電で澁谷町水道淨水場(→砧下浄水場)に給電を始めました。昭和3年(1928年)10月1日から荒玉水道町村組合淨水場(→砧上浄水場)に対して高幡変電所からの22kV送電が始まりましたが、程なくして東京電燈和田堀変電所からの京王電軌送電線での22kV送電に切り替えられたようです。昭和5年7月26日から技術研究所への3.3kV送電が始まりました。これらの需要家への送電も成城変電所からの送電に切り替えられたと思われます。
昭和16年(1941年)8月30日に配電統制令が公布、即日施行されました。これを受けて昭和17年(1942年)3月31日に電燈・電力供給事業全てが関東配電に譲渡され、関東配電成城変電所になりました。
昭和26年(1951年)5月1日に関東配電と日本発送電が再編され、東京電力が設立されました。それに伴い、この変電所も東京電力成城変電所になりました。現在の変電所周辺には土地境界標も含めて京王電軌時代の遺物は残っていません。
成城変電所へは、川世線に併架されている66kVの千南線から分岐した成城線がつながっています。成城線は川世線No.38鉄塔で千成開閉塔に引き込まれ、ここから地下送電線になっています。この鉄塔は昭和15年(1940年)の建て替え時の鉄塔です。
『管内電氣事業要覧 第拾参回』によると京王電軌時代の給電経路は東京電燈の群馬線(現在の川世線)にほぼ沿っていたようで、千歳烏山~仙川間の「千歳烏山30」架線柱のところで22kV送電線が分岐していたと推測できます。『マンホールのふた』には、京王電気軌道が地中線を使用していた記録があると書かれています。千成開閉塔~成城変電所間の地下送電線は京王電軌によって埋設された可能性があります。
なお、昨日(1月9日)の時点で千成開閉塔は工事用の塀で囲まれた状態になっています。
【参考文献】
京王電気軌道株式会社 『京王電氣軌道株式會社三十年史』 昭和16年2月20日
斯波武編纂 『京王電車囘顧二十年』 昭和5年
澁谷町臨時水道部 『施工中に在る澁谷町水道』 大正11年12月22日
"澁谷町水道", 土木學會誌, 第9巻第2号, pp.417-430(大正12年4月)
東京遞信局 『管内電氣事業要覧第六回』 電氣協會關東支部 昭和4年7月18日
東京地方遞信局 『管内電氣事業要覧 第拾参回』 電氣協會關東支部 昭和14年3月25日
林丈二 『マンホールのふた<日本篇>』 サイエンティスト社 1984年3月
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【2012.01.13追記】
千成開閉塔は用途廃止となった模様です。
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