春の小川100年
「春の小川」が文部省唱歌として「尋常小學唱歌(四)」に初めて掲載されてから今年で100年になります。
作詞は国文学者の高野辰之先生、作曲は岡野貞一先生と言われています。2人は東京音樂學校(現:東京藝術大学音楽学部)の教授でした。
明治45年(1912年)のオリジナルの歌詞は3番まであり、文語体で書かれていました。
※著作権消滅済
春の小川は さらさら流る
岸のすみれや れんげの花に
にほひめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く春の小川は さらさら流る
蝦やめだかや 小鮒の群に
今日も一日 ひなたに出でて
遊べ遊べと ささやく如く春の小川は さらさら流る
歌の上手よ いとしき子ども
聲をそろへて 小川の歌を
うたへうたへと ささやく如く
国民学校への移行に伴い、昭和17年(1942年)に3年生用の「初等音楽 一」に収録されました。このとき、3番の歌詞が削除され、林柳波氏の手によって口語体に改変されました。そして昭和22年(1947年)発行の文部省著作教科書「三年生の音楽」で、現在まで継承されている歌詞に改められました。
当時、高野先生は東京府豊多摩郡代々幡村山谷(現:渋谷区代々木3丁目3番)に住んでいて、宇田川支流の河骨川が流れていたこの一帯を散策していました。この河骨川の風景を詠ったのが「春の小川」の詩であると言われています。この詩から現在とは全く異なった100年前の風景を窺い知ることができます。
河骨川の源流は現在の代々木4丁目地内の2箇所の湧水で、小田急小田原線参宮橋駅西方から小田急線に沿って流れ、東京メトロ千代田線代々木公園駅付近で宇田川に合流していました。戦後、宅地化が進み、昭和37(1962年)から39年(1964年)にかけて暗渠化されました。小田急線参宮橋-代々木八幡間の東側側道が河骨川の暗渠です。
この小田急線の側道沿いの渋谷区代々木5丁目65番地に「春の小川」記念碑があります。この記念碑は地元の篤志家が建立し、渋谷区に寄贈したものです。碑の片面には高野先生の息女である弘子氏の書による「春の小川」の原詞の1番、反対面(小田急線側)には以下の碑文が刻まれています。
表記の詩は大正元年に高野辰之博士がこの下を流れていた宇田川の支流河骨川の岸べを散策し作詞したものです。
そのことを後世に伝えるためにこの碑を建立します。
昭和五十三年十二月六日 東京都渋谷区教育委員会
河骨川暗渠付近の電柱には春の小川の案内広告が掲出されています。
【参考文献】
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館 『「春の小川」が流れた街・渋谷 -川が映し出す地域史-』 2008年9月29日
田原光泰 『「春の小川」はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史』 之潮 2011年5月25日
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