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大正100年

今から100年前の明治45年(1912年)7月30日、宮内省は

天皇陛下今三十日午前零時四十三分崩御アラセラル

明治四十五年七月三十日

と明治天皇の崩御を公表しました。

明治22年(1889年)2月11日裁定の皇室典範(昭和22年5月2日廃止)には、

第二章  踐祚卽位

第十條 天皇崩スルトキハ皇嗣卽チ踐祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク

第十一條 卽位ノ禮及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ

第十二條 踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ

とあり、新帝の践祚は先帝の崩御当日に執り行わなければなりませんでした。これは帝位に一日たりとも空白があってはならないという考えに基づくものでした。

ところが実際の明治天皇の崩御日時は前日の7月29日22時43分であったため、日付が変わるまでに皇太子嘉仁親王が新帝になる践祚の儀を執り行うことは無理でした。そこで宮内省は崩御日時を2時間遅らせた翌日午前0時43分と定めました。そして午前1時から践祚の儀が執り行われました。

同日17時15分から枢密院で「元號建定ノ件」についての審議が行われ、「大正」「天興」「興化」の中から「大正」と決定されました。枢密院御下附案には「大正」の由来が、

易經曰大亨以正天之道又曰剛上而尚賢能止健大正也

と記されています。そして審議結果は直ちに上奏され、改元の詔書が公布されました。

朕菲德ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ威靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ
先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス主者施行セヨ

御名御璽

明治四十五年七月三十日

同時に元号の呼称が告示されました。

内閣告示第一號

元號ノ稱呼左ノ如シ
 タイシヤウ
 大正

大正元年七月三十日  内閣總理大臣 侯爵西園寺公望

改元は即日改元ですので、1912年7月30日は明治45年7月30日であり大正元年7月30日であると言えます。明治天皇崩御日にあたる7月30日は「明治天皇祭」という祭日になり、大正2年(1913年)から大正15年(1926年)までは先帝祭として休日にもなっていました。

大正15年(1926年)12月25日1時25分、大正天皇は静養中の葉山御用邸で崩御し、皇太子裕仁親王が践祚しました。9時15分から枢密院は「昭和」「元化」「同和」で元号案を審議し、新元号を「昭和」と決定しました。「元號建定ノ件會議筆記」には、

尚書、克明俊德、以親九族、九族既睦、平章百姓、百姓昭明、協和萬邦、黎民於變時雍

と「昭和」の由来が記されています。そして改元の詔書が公布されました。

朕皇祖皇宗ノ威靈ニ賴リ大統ヲ承ケ萬機ヲ總フ茲ニ定制ニ遵ヒ元號ヲ建テ大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト為ス

御名御璽

大正十五年十二月二十五日

このときも即日改元でしたので、大正15年12月25日=昭和元年12月25日であることになります。大正天皇崩御日である12月25日は「大正天皇祭」の祭日で、昭和2年(1927年)から昭和22年(1947年)までは休日となっていました。

昭和2年(1927年)2月7日に新宿御苑で斂葬の儀・葬場殿の儀が執り行われました。翌8日に東京府南多摩郡横山村・淺川村・元八王子村に跨る御料林地内の横山村大字下長房字龍ヶ谷戸に造営された多摩御陵で陵所の儀が営まれ、埋葬されました。

今年は明治から大正に改元されてちょうど100周年にあたります。まさに明治は遠くなりにけり...

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