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上目黒氷川神社の陸軍境界標

風景

玉川通り(国道246号・東京都市計画道路幹線街路放射第4号線)と山手通り(東京都市計画道路幹線街路環状第6号線・東京都道317号環状六号線)が合流する大橋交差点脇に上目黒氷川神社(大橋氷川神社)が建っています。祭神は素盞嗚命を主神とし、天照大御神と菅原道真を合祀しています。

風景

上目黒氷川神社は荏原郡上目黑村の鎮守で、天正年間(1573~1592年)に上目黑村の加藤氏が創建したといわれています。その後、明治11年(1878年)に上目黑村字別所にあった元富士の目黒富士浅間神社(祭神:木花開耶姫)が境内に遷座され、明治41年(1908年)に北野神社(鎮座地:目黒区青葉台1丁目)が合祀されました。

風景

風景

神社正面の石段は文化13年(1816年)に小松石で造られました。ところが明治38年(1905年)に、玉川電氣鐵道によって大山道(現:玉川通り)が拡幅された際に敷地を削られ、現在の急勾配の石段に改修されました。この拡幅工事で大坂や池尻付近が現在のルートになりました。

道標

標石

そして昭和3年(1928年)に環状道路第五號線・明治通が開通し、正面に大橋交差点ができました。

石段の下には文化13年(1816年)建立の石坂再建供養塔と天保13年(1842年)建立の道標があります。供養塔には、

(表)
坂再建供養塔
天下泰平 國土安全
武州荏原郡古菅刈庄目黒郷 惣 氏子若者中

(裏)
十三丙子年九月大吉日
當大教寺 二十世智達○代
世話人(以下略)

と刻まれています。また道標には、

(正面)大山道 せたがや道 玉川道
(右面)右 ひろう めぐろ 池がみ 品川 みち
(左面)左 青山 あさぶ みち

風景

風景

と書かれています。石段を上ると正面に拝殿があります。拝殿の左側には境内社である氷川稲荷大明神(祭神:宇迦御魂命)、右側には富士浅間神社があります。氷川稲荷の鳥居には、

干時嘉永五壬子年九月吉辰

と刻まれています。

明治24年(1891年)、麹町から神社の裏に陸軍乘馬學校が移転してきました。同時に学校の西側に第一師団騎兵第一大隊(明治29年11月21日聯隊に昇格)が転入し、翌年には近衛輜重兵大隊が設けられました。

map

明治26年(1893年)5月3日に公布された勅令第26號「陸軍獸毉學校條例」に基づき、陸軍乘馬學校(明治31年10月1日公布勅令第230號により陸軍騎兵實施學校に改称)内に陸軍獸毉學校が設置されましたが、明治42年(1909年)12月28日に荏原郡世田ヶ谷村大字代田字松代に転出しました。

地形図

大正5年(1916年)に陸軍騎兵實施學校が千葉県千葉郡二宮町大字薬園台に移転した後、東京市四谷區西信濃町から第一師団輜重兵第一大隊が移転してきました。昭和11年(1936年)6月に全ての輜重兵大隊は輜重兵聯隊に昇格しました。昭和12年の地形図では防諜上の理由で軍事施設等の名称が省かれていますので、赤字で施設名を補入しました。

標石

氷川稲荷大明神裏の隣地に陸軍の境界石が建っています。表面には、小田急線参宮橋駅前の標石と同じ「陸軍省所轄地」の文字が刻印されているようです。この境界石は、かつてこの地に騎兵實施學校や第一師団輜重兵第一聯隊等の陸軍施設が存在していたことを示す史跡に他なりません。

風景

標石

拝殿右奥の大坂側に下る裏参道の石段の脇には「八木」と刻印された境界石も建っています。こちらの標石の設置者や由来は不明です。

【参考文献】
世田谷区郷土資料館 『玉電 - 玉川電気鉄道と世田谷のあゆみ』 平成元年12月13日
東京都歴史教育者協議会 『東京の戦争と平和を歩く』 平和文化 2008年7月22日
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