終戦詔書と玉音放送
昭和20年(1945年)8月9日23時、宮城内地下壕「吹上御文庫付属室」で御前会議が開催されました。
この会議では「ポツダム宣言」を「国体護持」の条件付きで受諾することが決定され、翌日、連合国側に
- 中立国のスイス、スウェーデン駐在日本公使館経由
- 同盟通信社のニュース配信(10日20:33~)
- 海外向け放送「ラジオ東京」の英語ニュース(11日00:00~)
の手段で通告しました。このうちラジオ東京による通告は情報局や内閣の正式命令ではなく、同盟通信社の発案だったようです。ラジオ東京による通告は、南方総軍から怪放送だと文句が来て、13:00の北米向けを持って中止させられました。
「国体護持」の条件についてのアメリカ側の回答の解釈をめぐり、外務省と軍部が対立したため、8月14日の11時から改めて御前会議が開かれ、宣言受諾が決定されました。そして終戦の詔書(大東亞戰爭終結ノ詔書)が公布されました。
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歲ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尙交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五內爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
同時に終戦詔書を天皇の肉声(玉音)によって朗読し、これを放送する事で国民に諭旨することになりました。
14日13時に宮中の録音について日本放送協会へ通達があり、15時に大橋八郎会長以下8名の録音班が宮内省に出かけ、録音機材を宮中の拝謁間に設置しました。詔書裁可後の23時20分頃から御政務室で昭和天皇が詔書を朗読し、録音盤に録音されました。
収録前の14日21時の報道で
明日正午重要ナ発表ガアリマス。昼間配電ノ無イ所ニモ此時間ハ配電サレル事ニナッテオリマス。
と重大放送の予告がなされました。
15日の深夜、徹底抗戦を主張する一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀によるクーデター(宮城事件)が勃発し、玉音放送を阻止するために宮城と内幸町の放送会館が占拠され、録音盤の奪取が目論まれました。クーデターは東部軍管区司令の田中静壱陸軍大将らによって鎮圧され、放送会館は憲兵隊によって警備されました。この事件により15日は7時21分から放送が始まり、館野守男放送員による玉音放送の予告が行われました。
謹んで御伝へします。畏きあたりにおかせられましてはこの度詔書を煥発あらせられます。
畏くも天皇陛下におかせられましては本日正午おん自ら御放送遊ばされます。洵に恐れ多き極みでございます。国民は一人残らず謹んで玉音を拝しますように。(クリカヘスコト)
なお昼間送電のない地方にも正午の報道の時間には特別に送電致します。又官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などにおきましては手持ち受信機を出来るだけ活用して国民もれなく厳粛なる態度で畏き御言葉を拝し得ますよう御手配願ひます。有難き御放送は正午でございます。(クリカヘスコト)
尚けふの新聞は都合により午後1時頃配達されるところもあります。
そして正午から玉音放送が行われました。
- 正午の時報
- 「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立願ひます。」(和田信賢放送員)
- 「天皇陛下におかせられましては全国民に対し畏くも御自ら大詔を宣らせ給ふ事になりました。これより慎みて玉音をお送り申し上げます。」(下村宏情報局総裁)
- 君が代
- 玉音
- 君が代
- 「慎みて天皇陛下の玉音の放送を終わります。」(下村宏情報局総裁)
- 「謹んで詔書を奉読いたします」。」(以下、和田信賢放送員)
- 詔書の奉読(玉音放送と同内容)
- 「謹んで詔書の奉読を終わります。」
引き続き、和田信賢放送員の担当で終戦関連のニュースが放送されました。原稿は同盟通信社発のものでした。
- 終戦決定の御前会議の模様「これ以上国民の戦火に斃れるを見るに忍びず=平和再建に聖断降る=」
- 交換外交文書の要旨
- ポツダム宣言受諾に至った経緯「一度はソ連を通じて戦争終結を考究=国体護持の一線を確保=」
- 聖断の経緯「万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん」
- ポツダム宣言
- カイロ宣言
- 終戦に臨んでの国民の心構え「共同宣言受諾=平和再建の大詔渙発=」
- 8月9日から14日までの重要会議の開催経過「緊張の一週間」
- 鈴木貫太郎内閣総理大臣「大詔を拝し奉りて」の放送予告
この放送は37分間行われ、国内はもとより、短波による東亜放送を通じて出征将兵と在外邦人にも放送されました。さらに東亜放送の中継により朝鮮放送協会、台湾放送協会、満洲電信電話会社、華北広播協会、中国放送協会傘下の各放送局からも放送されました。海外向けのラジオ東京では、平川唯一米州部放送班長が詔書を厳格な文語体で英訳を行い、朗読しました。
当時、東京中央放送局(JOAK)は150kWのGRP-270C型送信機、他の中央放送局(大阪、名古屋、広島、熊本、仙台、札幌)は10kW送信機を使用していましたが、電波管制により各中央放送局とも昼間10kW、夜間5kWで放送していました。玉音放送時にはJOAKの出力を約50kWに増力して放送しました。
東京都南多摩郡堺村大字相原字土ヶ谷にあった多摩送信所のGRP-439C型短波送信機(50kW)は真空管の関係で20kW程度の出力で東亜放送用として運用されていました。当時、50kWをまともに出力できる短波送信機用真空管は大阪府南河内郡野田村の河内送信所にしかありませんでした。そこでこの真空管を河内から多摩に移送し、放送当日は約60kWに増力して東亜放送を送信しました。
- 【参考文献】
- 日本放送協会 『放送夜話-座談会による放送史』 1958年
- 北山節郎 『全記録ラジオ・トウキョウ-戦時体制下日本の対外放送-III 敗北への道』 田畑書店 1988年5月15日
- NHK放送文化研究所 『20世紀放送史 資料編』 NHK出版 2003年3月25日
- 竹山昭子 『史料が語る太平洋戦争下の放送』 世界思想社 2005年7月20日
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