近衛輜重兵大隊の屋内射撃場
明治25年(1892年)11月、この地に近衞輜重兵第一中隊が創設されました。そして翌年11月に近衞輜重兵大隊として編制されました。当時、西隣には第一師團騎兵第一大隊(明治29年11月21日聯隊に昇格)、東隣には陸軍乘馬學校(明治31年勅令第230號で陸軍騎兵實施學校に改称)がありました。大正5年(1916年)に陸軍騎兵實施學校が転出、入れ替わりに第一師團輜重兵第一大隊が移転してきました。
昭和2年11月12日付の陸普第5028号により、近衞輜重兵大隊敷地の南端に屋内射撃場が建設されました。
陸普第五〇二八號
近衞輜重兵大隊営内射擊場新設工事実施ノ件
昭和二年十一月十二日
首題工事ハ別紙仕訳書及図面ニ拠リ実施スヘシ
大正15年(1926年)6月30日発行の地形図には近衞輜重兵大隊敷地の南端に該当する建物はありませんが、昭和4年(1929年)の地形図には記載されています。このことから昭和3年度内に竣工したと考えられます。
建物は鉄筋コンクリート製で、壁の厚さが30cmあり、屋根や側面が複雑な凹凸形状となっています。これは防音効果を狙ったものです。また壁面には、建築された当初のものと思われる東京吉川製の「防火安全通風器」が取り付けられています。
その後、昭和11年(1936年)6月1日に軍令陸乙第19号に基づき全ての輜重兵大隊は輜重兵聯隊に昇格しました。
戦後、これらの軍用地は学校等に転用されました。現在、第一師團輜重兵第一聯隊跡地は東京都立駒場高等学校や東邦大学医療センター大橋病院等、近衞輜重兵聯隊跡地は警視庁交通部第三方面交通機動隊や駒場東邦中学校・高等学校等、第一師團騎兵第一大隊跡地は筑波大学附属駒場中学校・高等学校等になっています。
屋内射撃場は日本通運株式会社により買収され、倉庫として使われていました。ここ数年、音楽用貸スタジオや民間企業の倉庫として活用されていましたが、今年8月下旬頃より解体工事が始まりました。
- 【参考文献】
- 近衞師團參謀部 『近衞師團沿革概要』 明治43年5月30日
- 世田谷区教育委員会 『世田谷の地名(上)』 昭和59年3月10日
- 世田谷区企画部都市デザイン室 『世田谷古地図 昭和4年(1929年)当時』 平成5年3月
- 武田尚子: "近代東京における軍用地と都市空間 -渋谷・代々木周辺の都市基盤の形成-", 武蔵大学総合研究所紀要, 21, pp.47-66 (2012年6月15日)
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