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二子橋と逓信省マンホール【1】

二子橋は、多摩川(一級河川・多摩川水系本流)および並行している野川(一級河川・多摩川水系多摩川支流)に架かる玉川通り(国道246号・東京都市計画道路幹線街路放射第4号線)の橋です。

石碑

玉川通りの二子玉川付近と三軒茶屋以東は律令時代の東海道の本道である足柄道で、二子の渡しで多摩川を渡っていました。時代が下るとその機能は海よりを通っている現在の中原街道(東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線・東京都市計画道路幹線街路放射第2号線)筋に移りました。

鎌倉時代には、鎌倉との往還道の1つである中路に組み込まれました。中路は江戸時代以降、鎌倉街道中道(なかつみち)と呼ばれるようになりました。

風景

そして、江戸時代になると矢倉沢往還として整備され、東海道の脇往還になりました。ところが、多摩川は暴れ川でその流路が度々変わっていたため、渡河位置もその都度変わっていました。明治以降の渡河位置は野川合流点付近になりました。その位置に当たる世田谷区立玉川福祉作業所の門前に「二子の渡し跡」の石碑が建っています。

享保年間以降、江戸庶民の間で大山講が組織化され、大山の阿夫利神社へ参詣する「大山詣」が盛んになりました。そのとき江戸からへの参詣道としても利用されたことから「大山街道」、「大山道」とも呼ばれるようになりました。

大山街道は、大正9年(1920年)4月1日の東京府告示第百六十二號(府縣道ノ認定)と神奈川縣告示第百二十二號(府縣道ノ認定)により東京府道第1號東京厚木線、神奈川縣道厚木東京線に指定されました。

大正10年(1921年)11月17日から20日にかけて陸軍特別大演習が行われ、二子の渡し付近に工兵隊が仮橋を架けました。その後、陸軍は兵員・物資輸送のために多摩川への架橋を求めるようになり、東京府と神奈川縣は二子橋の架橋計画の策定に着手しました。

大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災により救援物資や復興資材の輸送需要が増大しました。また玉川(現:二子玉川)まで開業していた玉川電氣鐵道が溝ノ口(現:溝の口)までの延伸を計画し、大正13年(1924年)に特許を取得しました。このため、玉川電氣鐵道が二子橋建設費の30%を負担し、道路橋中央を単線で走行する権利を得ました。建設費の残りは東京府と神奈川縣で負担することとし、大正13年9月に起工しました。そして大正14年(1925年)7月末に竣工し、8月7日に開橋式が挙行されました。

二子橋

竣工した二子橋は非合成単純鈑桁橋で、全長240間(436.4m)、幅5間半(10.0m)、コンクリート橋脚23基、橋台2基、石川島造船所製の長さ60尺(18.2m)の鋼製橋桁が24連となっています。

二子橋の開通に伴い二子の渡しは廃止されました。

玉電34号

昭和2年(1927年)7月15日に玉川電氣鐵道溝ノ口線が開業し、二子橋上の路面を単線で電車が走行するようになりました。その後、昭和13年(1938年)4月1日に玉川電氣鐵道は東京橫濱電鐵に吸収合併されました。輸送量の増大に対応するために、昭和18年(1943年)7月1日に二子読売園(現:二子玉川)-溝ノ口間を1372mmから1067mmに改軌し、大井町方面と直通運転を開始しました。

そして昭和20年(1945年)10月1日に二子玉川-溝ノ口間が軌道から鉄道に変更され、二子橋は鉄道道路併用橋になりました。

(続く)

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