神田上水石樋と懸樋跡の碑
この石樋は、外堀通り(東京都道405号外濠環状線・東京都市計画道路幹線街路環状第2号線)で神田川分水路の工事中に発掘された神田上水遺跡の一部を平成2年 (1990年) に移築・復原したものです。
石樋の脇には、発掘・復原時に東京都知事だった鈴木俊一氏の書による「神田上水石樋」と刻まれた石碑が建っています。その左隣には黒御影の由来碑も並んでいます。
神田上水石樋の由来
神田上水は天正一八年、すなわち西暦一五九〇年、徳川家康が関東入国に際し、良質な飲料水を得るため、家臣大久保藤五郎忠行に命じて開削させたのが始まりと伝えられています。
この上水は、井の頭池を水源とする神田川の流れを、現在の文京区目白台下に堰を設けて取水し、後楽園のあたりからは地下の石樋によって導き、途中、掛樋で神田川を渡して、神田・日本橋方面へ給水していました。
日本における最初の上水道といわれ、その後、明治三四年、近代水道が整備されるのにともない廃止されるまで、ながく江戸・東京の人々の暮しに、大きな役割を果たしてきたのです。
ここに見られる石樋は、昭和六二年、文京区本郷一丁目先の外堀通りで、神田川分水路の工事中発掘された神田上水遺跡の一部です。四百年近く土中に埋もれていたにもかかわらず原型を損なわず、往時の技術の優秀さ、水準の高さを示しており、東京の水道発祥の記念として、永く後世に伝えるため移設復原されたものであります。
平成二年十月
杉本苑子誌
石樋が発掘されたのは、外堀通りと白山通り(都道301号白山祝田田町線・東京都市計画道路幹線街路放射第9号線)が交差する水道橋交差点の東方で、お茶の水分水路の呑口付近になります。
この場所に「神田川分水路事業 お茶の水分水路」と刻まれた石碑が建っています。お茶の水分水路はここから外堀通りの下を経由し、昌平橋下流で再び神田川に合流しています。
さらに東に進むと「神田上水懸樋跡」の石碑があります。神田上水はここに架けられた木製の樋で神田川を渡り、埋樋で神田・日本橋方面に達し、江戸市中に給水していました。
神田川の対岸となる千代田区神田駿河台2丁目の皀角坂の途中に「神田上水懸樋跡」の解説板が建っています。坂名はこの辺りに皂莢の木が多くあったことに由来しています。
神田上水懸樋のジオラマが東京都水道歴史館に展示されています。左側が文京区で、地中に埋められた石樋が見えます。袂の「もりやま」は懸樋跡の碑にも描かれている鰻屋です。
白山通りが神田川を跨ぐ水道橋の名称は、この懸樋があったことに由来しています。水道橋の親柱には、江戸時代の懸樋をお茶の水方から見た絵が描かれたレリーフが嵌め込まれています。懸樋の奥に見える橋が水道橋になります。
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- 【改訂】
- 懸樋ジオラマの記述と写真を追加、石碑と由来碑の写真を差し替え(2022.09.04)
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