池尻稲荷神社と大山道
玉川通りの池尻交差点の角に池尻稲荷神社が鎮座しています。社殿は昭和5年 (1930年) に建立された総檜造りで、近隣に駒澤練兵場があったにもかかわらず米軍による空襲で焼失しませんでした。
池尻稲荷神社御由緒
当池尻稲荷神社は、今から約三百五十年前の明暦年間(江戸時代の初期)に旧池尻村、池沢村の両村の産土神(ウブスナガミ)として創建鎮座になったもので、それより村の共同生活と信仰の中心として現在に至りました。
俗信仰としては古くから「火伏の稲荷」「子育ての稲荷」として霊験あらたかと伝えられており、又、江戸時代の随筆集にも池尻村の産土神は特に氏子の加護をする旨の奇談が掲載されています。
当時は大山街道(今の旧道)のほとりに常光寺の一偶に勧請されたもので、村民の信仰は勿論のこと、当時矢倉沢往還(今の二子玉川方面道路)と津久井往来(今の上野方面バス道路)の二つの街道からの人々が角屋、田中屋、信楽屋の三軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で休憩して江戸入りする道筋にありました。
又、江戸から大山詣での人々が大坂(現在、目黒区青葉台上通り、三菱UFJ銀行青葉台分館を経て大橋への坂道、当時は大変な急坂で農民泣かせといわれた)を下った道筋で道中の無事を願い、感謝する人々の信仰が篤く、現今も遠方の崇敬者が多いのは当時からの御神徳のあらわれであります。
なお、境内にある井戸水は京都伏見の薬力明神の神託による霊水として知られております。
神社の裏を通る道が大山道で、玉川通りができるまではこちらが参道でした。鳥居の脇には、平成8年 (1996年) 3月に地元町会により建立された「旧大山道」の石碑が建っています。
石碑のそばには、「涸れずの井戸」の碑と、少女が子守をしながら奉公先の子供と"かごめかごめ"で遊んでいる情景を表現した像があります。「涸れずの井戸」は「薬水の井戸」とも云われていて、今でも境内の手水として使われています。
大山道沿いに、昭和初期の建築と考えられる出桁造の町家が建っています。かつて軍人やその家族を相手にした商店が軒を連ねていた時代を彷彿させる建物です。
- 【参考文献】
- 世田谷区立郷土資料館 『玉電 - 玉川電気鉄道と世田谷のあゆみ』 平成元年12月13日
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- 【改訂】
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