浜町川のバラック建築
神田川との接続点は和泉橋と美倉橋のほぼ中間付近です。美倉橋は昭和4年 (1929年) 2月に竣工した清洲橋通り(千代田区特別区道千第789号・東京都市計画道路幹線街路補助線街路第186号線)の橋です。帝都復興事業の一環として架設された鋼製上路式アーチ橋で、上流側に水道管が添架されています。
美倉橋の約400m上流に架かる和泉橋は、昭和5年 (1930年) 3月に竣工した昭和通り(国道4号・東京都市計画道路幹線街路放射第12号線)の橋で、美倉橋と同じく帝都復興事業の一環で架設された鋼製上路式アーチ橋です。親柱の銘板には「大正五年三月完成」とありますが、昭和の誤記と考えられます。
昭和23~25年 (1948~1950年) に神田川から小川橋まで浜町川と龍閑川の流路が、米軍の空襲によって焦土と化した街の瓦礫で埋め立てられました。そこに人形町一帯で露店を営んでいた人達が強制移転させられ、千鳥橋から高砂橋にかけてバラック店舗が建ち並ぶ問屋橋商店街が形成されました。
古河銀行元濱町支店の十字路の斜向かいには、看板建築の煙草屋が建っています。古河銀行は千鳥橋西詰に建っていましたので、この写真の左側の道が千鳥橋になります。即ち煙草屋とそれを取り囲むように建っているイーガルドや高梨のビルは、浜町川の埋め立てられた元流路に建っていることになります。
千鳥橋の下流方の問屋橋に面した元流路には久松警察署問屋橋交番、そば処あり賀せいろうとクリーニング店が建っています。その下流側の榮橋との間には7軒のバラックが建っていました。
榮橋から高砂橋にかけての元流路には、20余軒のバラック店舗がひしめき合うように建っていました。瓦礫を埋め立てただけという地盤のためか、心持ちか歪んでいる建物も見受けられました。
問屋橋から高砂橋にかけてのバラック店舗群は再開発のため、2021年6月頃に解体されてしまいました。残っているのは千鳥橋から問屋橋までの一角だけになってしまいました。
- 【参考文献】
- 遠藤市次 『復興局公認 東京都市計畫圖』 大正15年5月20日
- 復興事務局 『帝都復興事業誌 土木篇上巻』 昭和6年3月31日
- 白井芳樹: "東京市内の震災前橋梁との関係から見た復興後のアーチ橋の配置に関する考察", 土木史研究講演集, 33, pp.75-86 (2013)
- 【関連記事】
- 日本橋富沢町の銀行建築 (2022.10.18)
- 浅草橋交差点の近代建築 (2022.10.17)
- 日本橋野村ビルディングと野村證券のマンホール (2022.09.08)
- 芝区豊岡町と松坂町 (2022.10.16)
- 津國屋と逓信省のマンホール (2022.10.12)
- 三田小山町 (2022.10.09)
- 神田区須田町一丁目界隈 (2022.10.06)
- 円山町花柳街の面影 (2022.10.03)
- 三軒茶屋の銅板貼り看板建築 (2022.09.25)
- 池尻稲荷神社と大山道 (2022.09.24) : 出桁造
- 東京電燈のマンホール (2022.09.06)
- 道玄坂の看板建築 (2015.02.05)
- 渋谷町水道の水止栓 (2014.12.27)(看板建築あり)
- 六郷用水物語 (2013.02.09) : 厨子二階出桁造
| 固定リンク
「 川・水路・暗渠」カテゴリの記事
- 下谷区の痕跡【現存建物篇】(2023.10.09)
- 滝坂道 大石橋の日本廻国供養之石塔(2023.02.01)
- 蟹川源流と東京府のマンホール(2023.01.15)
- 東京市電角筈線の専用軌道跡(2023.01.02)
- 東京市の混凝土製弁蓋と狸橋(2022.11.26)
「 近代建築」カテゴリの記事
- 東京の2桁市内局番【9】(2023.12.05)
- 東京の2桁市内局番【8】(2023.12.01)
- 松原町の逓信省境界標(2023.11.14)
- 東京の2桁市内局番【4】(2023.10.30)
- 東京の2桁市内局番【3】(2023.10.29)