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高輪橋架道橋【鉄道開業150周年記念】

※ 本記事は高輪ゲートウェイ駅開業前の2019年5~6月の状況を元にしたもので、現況とは異なります。

広重

150年前の明治5年9月12日 (1872年10月14日)、日本で初めての鉄道が新橋~横濵間で正式に開業しました。その4ヶ月前の明治5年5月7日 (1872年6月12日) に品川駅~横濵駅間で仮開業していましたが、新橋-品川間は海上を築堤で通したため、開業がずれ込んでしまいました。

地図

当時、高輪海岸付近には兵部省の軍用地や旧薩摩藩邸があり、国防上の理由から兵部省が鉄道局への引き渡しを拒否しました。このため、当時の海岸線に沿う形で海上に築堤(高輪築堤)が建設されました。築堤の4ヶ所に船が通る水路が設けられました。このうち芝車町には第7橋梁による水路がありました。

地図

明治9年 (1876年) 12月1日に新橋~品川間が複線化されました。その後、日本鐵道品川線(赤羽~品川、現在の山手線と埼京線の一部)を新橋に乗り入れさせるために3線化工事が行われ、明治32年12月25日に竣工しました。このとき、築堤の西側(山側)を埋め立てることで3線に拡幅しています。

地図

明治末期以降、広い範囲で埋め立てが行われ、築堤が埋没してしまいました。明治43年 (1910年) から東海道本線の海側を埋め立て、品川貨物操車場の新設工事が始まりました。これに伴い第7橋梁の水路もなくなりましたが、車町河岸は残されたため、現在の高輪橋架道橋の位置に新水路が開削されました。

水路 水路

昭和初期に車町河岸も埋め立てられ、水路は雨水放水路として転用されました。下水道台帳によると水路はRC構造で、橋梁下は幅5.4m、高さ4.25mで、線路脇は幅1.6m、高さ2.0mとなっています。

道路 架道橋

昭和12年頃に石垣構造で人専用道路が開通しました。その後、品川客車操車場や東京機関区の新設に伴い、コンクリート構造で通路や放水路が海側(東側)に延長されました。

道路 標識

昭和30年代に車両も通行できるようになりました。道路面を海面以下にできなかったため、石垣区間では橋桁を上げましたが、コンクリート区間では上げられず高さ制限が1.5mになってしまいました。

架道橋 架道橋

このため、タクシーの屋根表示灯(提灯)が天井に当たり破損することや、背の高い人がかがまないと通れないことから、「提灯殺しのガード」や「首曲がりトンネル」との異名が付けられました。

架道橋 架道橋

JR東日本は3種類の名称を現地に掲出しています。港区はこの道路(港区特別区道第241号線)を「高輪橋架道橋下区道」と称していますので、本記事では「高輪橋架道橋」を採用しました。

架道橋

2020年3月14日の高輪ゲートウェイ駅暫定開業とそれに伴う再開発により、この区道も改築されることになっています。このため、2020年4月12日10時から2032年3月までの予定で車両通行止めとなっています。更に2021年6月1日から西側の石垣区間が通れなくなりました。

広重
【参考文献】
歌川広重(三代)『東京名所圖會』 明治12年2月3日
新美社 『携帯番地入東亰區分地圖』 明治42年11月10日
港区教育委員会 『高輪築堤出土!』 2021年2月27日
港区教育委員会 『概説 高輪築堤』 令和4年3月31日
高橋俊一: "高輪橋梁", 山手線が渡る橋・くぐる橋(2022年10月13日閲覧)
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