東京の2桁市内局番【5】
(承前) 昭和7年(1932年)10月1日、東京市は隣接5郡82町村を編入し15区を35区にしました。昭和11年10月1日に北多摩郡千歳村と砧村を世田谷區に編入し、東京市の市域が現在の東京都区部の範囲に拡大しました。ところが、編入された新市域にある電話局の東京市内への編入は市域拡大とは同時ではありませんでした。
| 固定リンク
(承前) 昭和7年(1932年)10月1日、東京市は隣接5郡82町村を編入し15区を35区にしました。昭和11年10月1日に北多摩郡千歳村と砧村を世田谷區に編入し、東京市の市域が現在の東京都区部の範囲に拡大しました。ところが、編入された新市域にある電話局の東京市内への編入は市域拡大とは同時ではありませんでした。
| 固定リンク
(承前) 東京市に隣接していた荏原郡・豐多摩郡・北豐島郡・南足立郡・南葛飾郡(隣接5郡)では、明治39年開局の池上電話局を皮切りに、郵便局に併設される形で特設電話規則(明治38年4月20日遞信省令第34號、同年5月1日施行)に基づく電話局が26局設置されました。
| 固定リンク
(承前) 大正14年度以降、震災復興と市内通話の自働交換化が推し進められるようになりました。その端緒となるのが自働式交換機を設置した京橋分局の復旧で、大正15年1月20日に運用開始となりました。これに伴い、2桁の市内局番と4桁の加入番号を組み合わせた電話番号 CD-FGHJ が使われるようになりました。
| 固定リンク
(承前) 今から100年前の大正12年(1923年)9月1日11時58分32秒に発生した大正関東地震はM7.9~8.1で、第1震源である小田原直下で断層破壊が起こり、その10~15秒後に第2震源となる三浦半島直下で破壊が生じました。12時1分に東京湾羽田沖が震源のM7.2の余震、12時3分に山梨県道志村付近が震源のM7.3の余震が立て続けに発生し、東京は5分間も強い揺れに見舞われました。
| 固定リンク
足立区千住中居町に建つ千住郵便局電話事務室は、昭和4年(1929年)5月に竣工したRC造2階建の逓信建築です。設計者は遞信省の山田守技師で、この時期には電信局、電話局の設計だけではなく、復興局土木部にも所属し永代橋、聖橋、萬代橋などの震災復興橋梁のデザインも行っていました。
| 固定リンク
(承前) 上野から12km離れた世田谷区太子堂2丁目にある下の谷商店会は、大正12年(1923年)の関東大震災と昭和20年(1945年)の戦災で下谷區から疎開・移住してきた人たちによって形成された商店街です。南端で太子堂中央街とつながり、その角では堀越青果店が盛業中です。
| 固定リンク
(承前) 下谷區内にあった下谷消防署の望楼上部、村上精華堂、鍵屋が東京都立小金井公園の江戸東京たてもの園に移築されています。このうち、下谷消防署は昭和50年4月1日に上野消防署と改称しましたが、明治44年(1911年)の第5消防署庁舎落成以来、現在地である北稻荷町43番地(→東上野5丁目)にあります。
| 固定リンク
中秋の名月とは旧暦8月15日の晩、即ち十五夜に見える月のことで、15日夕刻に出て16日朝方に沈む月を指します。1900年から2500年までの600年間で特徴ある中秋の名月をリストアップしました。
| 固定リンク