東京の2桁市内局番【9】

旧町名

(承前) 昭和31年(1956年)7月27日に初めての3桁市内局番である"328"が松沢局で始まり、以後新規開局や増設で付与される局番はすべて3桁になりました。このため、これ以降に東京市内区域に編入した北町局と戦災復旧した墨田局には3桁局番が付与されました。

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東京の2桁市内局番【8】

電電公社マンホール

(承前) 昭和27年(1952年)8月1日、電気通信省の電信電話事業を引き継ぐ形で日本電信電話公社が設立され、各電話局は地区電話局の下で分局化されました。また、東京・大阪・名古屋圏の短距離市外通話の自動即時化と加入者数の急増に伴う番号枯渇対策の検討が本格化しました。

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松原町の逓信省境界標

旧町名

昭和7年(1932年)10月1日に世田谷町、駒澤町、松澤村、玉川村が合併して世田谷區が誕生しました。このとき飛地が整理され、基本的には各町村の大字を踏襲する形で町名・町域が制定されました。松澤村大字松原の大半は世田谷區松原町一丁目~四丁目になりました。

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東京の2桁市内局番【4】

電話局

(承前) 東京市に隣接していた荏原郡・豐多摩郡・北豐島郡・南足立郡・南葛飾郡(隣接5郡)では、明治39年開局の池上電話局を皮切りに、郵便局に併設される形で特設電話規則(明治38年4月20日遞信省令第34號、同年5月1日施行)に基づく電話局が26局設置されました。

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東京の2桁市内局番【3】

電話区画図

(承前) 大正14年度以降、震災復興と市内通話の自働交換化が推し進められるようになりました。その端緒となるのが自働式交換機を設置した京橋分局の復旧で、大正15年1月20日に運用開始となりました。これに伴い、2桁の市内局番と4桁の加入番号を組み合わせた電話番号 CD-FGHJ が使われるようになりました。

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東京の2桁市内局番【2】

局舎

(承前) 今から100年前の大正12年(1923年)9月1日11時58分32秒に発生した大正関東地震はM7.9~8.1で、第1震源である小田原直下で断層破壊が起こり、その10~15秒後に第2震源となる三浦半島直下で破壊が生じました。12時1分に東京湾羽田沖が震源のM7.2の余震、12時3分に山梨県道志村付近が震源のM7.3の余震が立て続けに発生し、東京は5分間も強い揺れに見舞われました。

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東京の2桁市内局番【1】

東京電話交換局

日本における電話は、明治23年(1890年)12月16日に東京と横浜で電話が開通し、市内通話と東京-横浜間の市外通話が始まったのが嚆矢となります。東京電話交換局は通称龍ノ口と呼ばれていた東京市麴町區永樂町(現:千代田区丸ノ内1丁目 日本工業倶楽部会館)で開局しました。

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千住郵便局電話事務室

電話局

足立区千住中居町に建つ千住郵便局電話事務室は、昭和4年(1929年)5月に竣工したRC造2階建の逓信建築です。設計者は遞信省の山田守技師で、この時期には電信局、電話局の設計だけではなく、復興局土木部にも所属し永代橋、聖橋、萬代橋などの震災復興橋梁のデザインも行っていました。

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千住元町にあった東京電燈の銘板

銭湯建築 解説

昭和4年10月、現在の足立区千住元町3-9の地で子宝湯が開業しました。入口上部に唐破風のある宮造り建築で、昭和63年に廃業後、江戸東京たてもの園に移築されました。

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下谷区の痕跡【疎開移住篇】

商店街

(承前) 上野から12km離れた世田谷区太子堂2丁目にある下の谷商店会は、大正12年(1923年)の関東大震災と昭和20年(1945年)の戦災で下谷區から疎開・移住してきた人たちによって形成された商店街です。南端で太子堂中央街とつながり、その角では堀越青果店が盛業中です。

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